おもちゃのちゃっちゃっちゃっ
おもちゃのちゃっちゃっちゃっ
... ... ... endres 祈
小説「火垂(ほた)るの墓」などで知られる作家で、「焼け跡闇市派」を自任する傍ら、歌手やタレント、元参院議員として幅広く活躍した野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日午後10時半ごろ、心不全のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。密葬は近親者で営む。本葬は年内に営む。喪主は妻暘子(ようこ)さん。
1930年、後に新潟県副知事になる父相如(すけゆき)、母ヌイの次男として鎌倉に生まれ、間もなく母が亡くなったため、神戸市で貿易会社の支配人を務める親類へ養子に出された。
神戸市立第一中在学中の45年、神戸大空襲で家を焼かれ、養父は死亡。疎開先の福井県では義妹を栄養失調で失う。この時の体験は「火垂(ほた)るの墓」のモチーフとして生かされている。47年に上京したが、万引きなどが発覚し、少年院に入れられた。この年実父に引き取られ新潟へ。野坂の姓に戻った。
49年新潟大教育学部新発田分校に入学するが3日後に退学した。50年、早稲田大文学部仏文科に入学。古着の行商など、さまざまなアルバイトを経験した。在学中から三木鶏郎(みき・とりろう)音楽事務所、後の「冗談工房」で事務員を務め、やめてからコント執筆を開始した。授業料滞納で大学を除籍後、CMソングの作詞を始め「セクシー・ピンク」など多くのヒット曲を生んだ。
61年からコラムニストとして活躍しだし、63年「エロ事師たち」を連載、三島由紀夫、吉行淳之介らに絶賛され、作家として注目される。同年、作詞した「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞童謡賞を受賞。
68年「アメリカひじき」「火垂るの墓」で第58回の直木賞を受賞した。「真夜中のマリア」「マリリン・モンロー・ノー・リターン」などの小説を発表、七五調の歯切れのいい独特の文体で人気を呼び、人気作家となったが、72年編集長をしていた雑誌「面白半分」に永井荷風作と言われる「四畳半襖の下張」を掲載したことで、わいせつ文書販売等の罪で起訴され、有名作家を次々と呼ぶ法廷戦術は話題となった。74年参院議員選挙に無所属で東京地方区から立候補し落選。東京高裁、最高裁と争われた「四畳半」裁判は80年有罪が確定した。
83年参院比例代表に二院クラブから名簿記載順位1位で立候補し当選したが、同年田中角栄元首相の選挙区、衆院旧新潟3区から無所属で立候補、落選した。
ほかの主な作品に「骨餓身峠死人葛」「水虫魂」「死小説」「自弔の鐘」(毎日新聞連載)、三島由紀夫論の「赫奕(かくやく)たる逆光−私説・三島由紀夫」などがある。
野坂さんは、2003年に脳梗塞(こうそく)で倒れたあと、自宅でリハビリを続けながら、本紙朝刊くらし面で、07年2月から「七転び八起き」の連載をスタート。今年3月まで200回にわたり、平和への思いなどをつづった。連載には、妻暘子さん撮影の、野坂さんの近況を伝える写真が添えられていた。
黒メガネでダンディー、一見軟派的な言動のうちに秘めた正義感が背骨を貫いていた作家、野坂昭如さんが9日、旅立った。 野坂さんほど話題を振りまいた作家もいなかった。「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか……みんな悩んで大きくなった」のテレビCM、独特の早口でまくし立てた討論番組、“中年御三家”と呼ばれた歌手、参院選の落選と当選、衆院選旧新潟3区での田中角栄元首相への挑戦、ラグビーへの入れ込み……さまざまな世界を縦横無尽に走り回った。
1974年東京地方区からの参院選立候補の時のスローガンは「二度と飢えたこどもの顔をみたくない」だった。戦後の食糧不足で妹を失った悲しみを生涯心の中に抱き続けた。二院クラブから出馬し、当選した時は、政界内部を話題にしたゲリラ的ミニコミ紙「鬼門タイムズ」を自費で発行、無料で配った。
現職の参院議員を辞しての衆院選旧新潟3区からの立候補は、依然として政府に対し力を持つ田中元首相を「落とすため」だった。トップ当選の田中元首相の22万票に対し、6位の2万8000票に終わった。
「四畳半襖の下張」裁判では一貫して作品の芸術性を主張。有罪が確定し、「わいせつ文書販売罪」を適用され罰金10万円を科されたが、分かりにくい法廷用語に立ち向かい、丸谷才一、吉行淳之介、五木寛之、有吉佐和子各氏らの人気作家を次々と法廷に呼び、わいせつについて語らせるなど裁判制度、法廷闘争の在り方に一石を投じた。
決してうまいとは言えない歌だったが、レコードを吹き込み、70年に出た2枚目のレコード「マリリン・モンロー・ノー・リターン/黒の舟唄」は評判となり、永六輔さん、小沢昭一さんとの“中年御三家”は74年に日本武道館リサイタルを実現するほどの人気だった。
「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)や「朝まで生テレビ!」(同)などに出演。歯に衣(きぬ)着せぬ言葉で政治や社会を批判し、時に破天荒な振る舞いで物議を醸した。90年には友人の大島渚監督のパーティーで殴り合いに至り、話題となった。
2003年、脳梗塞(こうそく)で倒れた後も、リハビリをしながら執筆活動を継続。戦争体験者の視点から、憲法改正や食料輸入を厳しく批判した。
毎日新聞紙上のコラム「七転び八起き」でも日本の現状を嘆き、「若い人にこそ戦争を知ってほしい」「憲法改正は日本を破滅に追いやる」と直接的な言葉で警告を発し続けた。
「尊敬する破天荒者だと思ってる人がいった。ちゃっちゃっちゃっ」 @野坂昭如http://mainichi.jp/m/?aDbdNG peace please !!! 裕(40分前)