日本武道館が「ロックの殿堂」へと向かう変化の扉が“あの時”開かれた。ザ・ビートルズ来日から、もうすぐ50年。かつてのビートルマニアが全国各地でまた、うごめいている。彼らの来日は日本をどう変えたのか。なぜ今でもあの熱狂が残っているのか−−。【井田純】
東京・渋谷のパルコの一角。日の丸が掲げられた武道館に登場した瞬間のビートルズの写真をあしらったグッズなど“お宝”商品がずらりと並ぶ。7年前に閉店したビートルズ専門店「GETBACK」が、1日から期間限定で復活した。店を切り盛りする責任者の遠藤祐一さん(47)は「男女とも往年のファンが多く来店されます。当時のチケットがプリントされたTシャツや、50年前、会場で販売された公式ビニールバッグの実物などが注目されています」と語る。来日50年を記念した各地のイベントは、ビートルズナンバーのコンサートやトークセッション、講座など、今年に入って少なくとも50件にのぼる。
ビートルズの4人が羽田空港に降り立ったのは1966年6月29日未明。翌30日から7月2日までの3日間に11曲30分程度の公演を5回行ったにすぎない。それでも忘れられない名演奏だったのだろうか。
「彼らが舞台で何か言うたびに『ギャー』って歓声が響いて、すごいな、と。聞こえてくるの全部知っている曲ばかりだしね」。こう振り返るのは、前座を務めたザ・ドリフターズの仲本工事さん(74)。最初は出演時間40分を提示され、リーダーのいかりや長介さんを中心に音楽とコントを組み立てた。「ところが1週間後には20分と言われ、最後は『40秒で』だって」
結局、ビートルズのレパートリーでもあった「ロング・トール・サリー」1曲をコント仕立てで演奏することになった。仲本さんはボーカルとギターを担当、司会の紹介に導かれてステージに飛び出したが、「世界的スターを心待ちにしているお客さんは『何だ、あれ』って感じじゃなかったかな」。まだ、お化け番組「8時だョ!全員集合」の開始前のことだ。
楽屋はもちろん、通路もビートルズ用は幕で仕切られ別。前座の出演者でさえあいさつするチャンスはなかった。「でも、加藤(茶さん)がトイレで一緒になったって。さすがにそこは同じだったみたい」。仲本さんは、仲間のささやかな“接触”をうれしそうに振り返る。
武道館は70年代には、来日バンドが飛躍する晴れ舞台として海外でも知られるようになったが、当時は日本の武士道精神を世界に示すいわば“聖地”だった。そこがビートルズ公演に使われると発表されるや、ミキサー室に忍び込んで籠城(ろうじょう)しようとするマニアの珍事件が相次ぎ、一部右翼団体による来日反対運動も始まった。
公演数週間前のサンデー毎日6月12日号をひもとくと、武道館会長を務める読売新聞社主の正力松太郎氏が取材に「ペートルなんとかちゅうのは、ありゃなんだね」「武道館の精神に反するようなものは困るんだ」と反対論をぶちあげ、他会場での開催案が浮上したと報じられている。同じ誌面には、TBS「時事放談」で、政治評論家の細川隆元氏らも「エレキギターだのモンキーダンスだのという騒々しいものは人類進歩の邪魔」「ビートルズごときくだらんものを呼ぶとは何事か」と繰り返し批判したとある。
「背景に、戦勝国に対する反発や外国人コンプレックスがあったと思います。来日前はビートルズを聴いたこともなかった人が多かったのに、何かトラブルを起こすだろうという視点が中心だった」
こう話すのは、62〜70年の新聞や雑誌を分析した「『ビートルズと日本』 熱狂の記録」を3月に出版した大村亨さん(46)だ。武道館開催は結局、プロモーターとの交渉で正力氏が折れた。「ビートルズ来日後、大きく変わった一つが雑誌メディアの誌面。性を含め、さまざまなタブーがなくなり、今とほぼ同じスタイルになった。時代の転換期でもあったが、来日騒動に刺激され、社会のタガが外れたのでは」と来日インパクトの大きさを語る。
来日反対運動などもあってか協賛をためらう企業が出る中、国民的な関心に期待してテレビ放映スポンサーになり、印象づけたのがライオン(東京都墨田区)だった。社史資料室の松村伸彦室長(61)によると、「放映権は4000万円で、視聴者4000万人とすれば1人1円と判断した、という記録が残っています」と話す。実際の視聴率は56・5%。当時は1%で70万人とされ、読みは的中した。
当時小学生だった松村室長は、テレビ中継を見なかった。「周囲から『不良の音楽』だと刷りこまれ、見たい、という発想さえ出てこなかった」と笑う。
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「あの時の『排斥運動』は、今ネット上で匿名で起きていることと同じような気がする。よく知りもしない対象を攻撃するのって、昔も今も同じじゃない?」。武道館で直接公演を聴いた音楽誌「ロッキング・オン」創刊メンバーの松村雄策さん(65)は、警備員として雇われたらしい学生服姿の大学生の暴言を「今でも許せない」。会場内に警察官とともに配備されていた学生が、英国旗を出そうとする女の子を「やめろ」と威圧し、公演後、感極まって泣いているファンを「早く帰れバカ」と怒鳴りつける姿を見た。「あの連中が、今は『俺もあそこでビートルズを見たんだよ』なんて孫に自慢しているかもしれないと思うと、余計に腹が立つ」。ビートルズのアルバム「イエローサブマリン」のTシャツを着た松村さんは、白髪頭を振りながらそう力を込めた。
もうひとつ、松村さんが鮮明に覚えているのが、来日当日の記者会見だ。「名声も富も得て、次に何を望みますか」と聞かれたジョン・レノンは「平和」と答えた。「それに対して、会場から笑いが起きたんですよ。冗談と受け取ったんだろうけど、ジョンは本気だったと思う。その後に彼がしたことを見れば」。会見録によると、続けてポールが「原爆の禁止」と答え、ジョンが「原爆禁止。そうだね」と発言した。翌日の毎日新聞朝刊は「ボクたちも平和がほしい」という見出しで短く報じた。
松村さんは言う。「先月のオバマ米大統領の広島訪問を見て、50年前の会見を思い出した。彼らが訴えた平和が実現するのは、本当にすごく時間がかかるなあって感じる」
ビートルズが演奏とともに日本で伝えようとしたメッセージは何だったのか−−。50年を機に、心の受信機をセットして改めて感じてみたい。
くるまをのりかえるたびにおもうことです。しゃけんしすてむへのぎもんとていこうです。また、でっかいごみをつくりました。がっしょう