世界の平和を願って
卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。
原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。
その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。
平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。
平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。
何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。
そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。
『世界の平和を願って 』愛子の作文 http://mainichi.jp/articles/20170322/mog/00m/040/003000c?fm=mnm 裕
『私は出来ない事が日々の暮らしです。』わ)裕
http://d.hatena.ne.jp/italhero/20170204/1486200696 巨人以外は考えてない、在京セ希望でしたから、セ・リーグの球団に行きたかった。
先日、
元木大介氏インタビュー資料のひとつで89年ドラフト会議の『プロ野球ニュース』映像を観ていたら、指名選手たちがそんなコメントを残していた。
それだけまだセ・リーグとパ・リーグの人気格差が大きかった時代の話だ。この年、
野茂英雄が史上最多タイの8球団指名を受け、近鉄が交渉権獲得。
その抽選に外れた大洋が指名したのがのちの“大魔神”、
佐々木主浩である。
「社会人のヤマハさんに行きたかったんで、今は指名されて戸惑っています。人と違いまして腰に不安を持ってますんで、自分としては自信がありません」と虚ろな表情で記者会見に臨む、若かりし日の佐々木は新鮮ですらある。
佐藤和弘、瞬く間に人気者にそして、オリックスの外れ1位指名を受けたのが当時24歳の佐藤和弘だった。
母ちゃんが作ってくれた焼きおにぎりを食べながらドラフト中継を見ていたら、自分の名前が呼ばれて鼻からご飯を吹いた男は、他の選手のようにスーツではなく、熊谷組のスタジャンに金色のネックレス、うっすらと無精髭を蓄えたパンチパーマ姿で取材陣の前へ。
80年代後半からパ・リーグにも“新人類”や“トレンディエース”といった若いスター選手が出現していた時代の変わり目、昭和から平成へと球界も転換期だった89年に、ネタになりそうなド昭和の風貌の暑苦しいルーキーが登場したのだ。
なんか最近の若いプロ野球選手はギラギラしてない、ツルっとしてるよねぇと嘆いていたマスコミは当然飛びついた。
『ひとんちを覗く事が趣味では在りません。がっつ!?ワイドショーは巧い所を突いて来る。SNSを駆使出来る人はアッと言う間に成長したと思います。』
http://ameblo.jp/matsui-kazuyo/entry-12291921457.html?frm_src=favoritemail 裕
いい加減、民進党は妙な連中を追い出さないと、信用壊滅だよ。半端者は去れ。それが言えないなら、全員消滅。連合の傀儡やめろ。野党共闘本気でやれ。
https://twitter.com/aritayoshifu/status/884728330817163264(5時間前)