阿部が向かったのはドバイの国際食品見本市「ガルフード」。三陸で捕れたカツオなどの品質を欧米や中東のバイヤーに見せつけ、驚かせた。
5年前の震災当日、阿部は中国・上海にいた。ホテルのテレビで見たのは津波で石油タンクが流され、火の海になった気仙沼。「会社はもう駄目だ。おやじが悲しむな」。創業者の会長、阿部泰児(82)の顔が浮かび、一睡もできなかった。
3日後に気仙沼に帰ると自社の9工場のうち8工場が全壊していた。それでも泰児は言った。「また、やり直せる。俺も津波ですべてを失った後に阿部長を起こしたんだ」。泰児は1960年に宮城県を襲ったチリ津波に鮮魚店を流され、鮮魚の行商から再起した。そこから自社工場を構え、業容を拡大していった。
泰浩は決断した。「俺も姿を変えて立ち上がる。三陸の仲間と手を組み、世界に打って出る」。工場を再建しながら、同業他社の説得を始めた。
泰浩の言葉は他社を動かした。大船渡港(岩手県)のサケ、八戸港(青森県)のサバ、気仙沼港のカツオ。国内では争いあう水産各社が3月上旬に輸出協議会を設けて商品を持ち寄り、津波から復活した三陸の魚介を世界の食卓に届けていく。
大規模なシジミ漁を手掛ける北上川企業組合(宮城県石巻市)代表理事の佐藤太己男(66)にとって、5年前の3月11日は門出の日になるはずだった。地元の漁師が集まった組合の結成式は午後3時。その14分前に地震が起き、津波は組合の船や備品をのみ込んだ。
佐藤ら6人の組合員は無事だったが、船や器具を買い直す資金はない。シジミの成長には時間がかかり、早く稚貝を放流しなければ永久に漁を再開できなくなる。佐藤は決めた。「福島で金を稼ぐぞ」。東京電力福島第1原発の事故による除染作業を全員で志願した。
震災の翌年から1年間、福島市内を除染した。ためた300万円で稚貝を仕入れ、石巻市の北上川に放流した。遠回りを経た再出発だった。
震災は組合の門出を妨げたが、後押しもした。北上川が地盤沈下して漁場が広がり、いまは震災前より漁獲量が多い。「将来は築地にも出荷したい」。東北だけに取引が限られた震災前からの脱皮を佐藤は見据える。
カキ養殖大手、桃浦かき生産者合同会社(宮城県石巻市)代表社員の大山勝幸(69)は震災で自宅も漁具も失い、廃業するつもりだった。11年5月にテレビ番組で熱く語る宮城県知事の村井嘉浩(55)を見るまでは。
村井は水産業を復興する切り札として、企業が漁業に参入しやすくする経済特区を設けた。「仲間と会社をつくれば再起できる」。直感した大山は同業者とともに、村井が特区について仙台市で語る講演会に向かった。
講演会の終了後に大山は宮城県庁の知事室を約束なしで訪れる。村井は不在で、名刺を置いて帰った。数十分後、同行者の携帯電話が鳴る。村井だった。「ぜひ特区を使ってください」。そう言って背中を押した。
大山は漁師15人で資金を出し合い、水産卸の仙台水産(仙台市)の資金支援も得て12年8月に合同会社を設立した。廃業を考えたことは、いつの間にか忘れていた。
合同会社は個人では購入できない瞬間冷凍機を導入し、カキを飲食店などに高値で卸している。昨春には大卒者が漁師として入社した。確実な変化を感じている。
被災地の産業再生には多くの国費が投じられたが、当事者もリスクを負った。漁船建造のマリン遠山合同会社(宮城県石巻市)代表、三浦順(66)が設備再建の補助金を得るためには、他社との集約が条件だった。
津波は造船所を直撃したが、近隣の漁師からは相次いで漁船の修繕を頼まれる。機械の泥を落とし、がれきに囲まれて青空の下で修繕を始めた。
「漁師が海に出るって言ってるんだから、俺もやらないとな」。決断した三浦は金融機関との折衝や新会社の設立、設備建設までやり抜き、新たな姿で再び歩み始めた。
東日本大震災から間もなく5年。震災で表面化した課題の克服に挑む被災地や政界・経済界の現場を追った。(敬称略)