■評伝
2003年、81歳で手塚治虫文化賞特別賞を受賞した水木しげるさんは、贈呈式のスピーチで「徹夜続きの手塚さんは早死にした。私は半分寝ぼけたような一生だったが、長生きした」と会場を笑わせた。
得意のおとぼけ? いや、闇を引き寄せ、夢や回想に浸ることを許してくれる眠りこそ、水木さんの得意とする時間だった。
空想好きな子どもだった。1922年大阪市で生まれ、すぐ母の郷里、鳥取県境港市に移る。依頼者の病気平癒を祈る“拝み手”の老婆「のんのんばあ」の妖怪話に夢中になり、寺の地獄絵を飽きず眺めた。
黄金の子ども時代を、戦争が終わらせる。21歳で応召後は苦難だらけだった。激戦地のラバウル(ニューブリテン島)で左腕を失い、復員後は魚屋、アパート経営など職を転々とした後、紙芝居屋、貸本マンガ家と時代遅れの画業に従事。65年に「テレビくん」で講談社児童まんが賞を取り「やっと食えるようになった」時には40歳を超えていた。
手塚治虫や「トキワ荘」グループに代表されるモダンなマンガが全盛の時代。その中で、妖怪や異界を銅版画のような細密さで描き、せこく泥臭い人間どもが右往左往する水木マンガは、異様に目立った。68年に「ゲゲゲの鬼太郎」がアニメ化されて以降、妖怪ものの大家としての地位は不動となり、妖怪研究者としても「妖怪画談」「日本妖怪大全」など絵入りの著作を通じ、イメージ豊かな妖怪像を世に送り出した。
水木さんの腕を奪った「戦争」もまた、創作の大きな柱だった。「白い旗」など戦記もの、実体験を元にした「総員玉砕せよ!」、集大成の「コミック昭和史」……。「長くウンコをしているだけで」上官に「ビビビビビーン」とビンタされる戦争、戦闘で生き残ると「次は真っ先に死ね」と命じられる戦争を、黒く乾いた笑いにくるんで描き続けた。
つらい戦争体験は、南方への憧憬(しょうけい)を植え付けた。兵士たちより現地の住民との交流が性に合った。国対国、敵か味方かを超えた「楽園」の幸福を繰り返し語った。
半面、辛酸をなめた男ならではのずぶとい合理性と、人の才を見抜く目も備えていた。マンガが売れるといち早く量産態勢を整え「うまくて早くてヒマそうな」若手に手伝いに来てもらう。つげ義春は手伝いの合間に「紅い花」「ねじ式」といった傑作を描いた。池上遼一、鈴木翁二らも水木さんのもとから巣立っていった。
南の島の「楽園」に想(おも)いを馳せつつ、東京都調布市の仕事場で、晩年まで多忙な日々をぼやいていた水木さん。終わらない眠りに入り「フハッ! 霊界とはこんなところだったか」と驚いているだろうか。(編集委員・鈴木繁)
「誕生日!おめでとうございます。H27/12/01」 @のんのんばあ http://news.asahi.com/c/alb4enem6yzu6Paf peace please !!! 裕(22分前)